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―――話は数日前に遡る。
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トン、トン、トン、トン、
「母さん。」
まな板の上の野菜に向かって、無言で包丁を振り続ける母さんに声を掛けた。
「…なによ。」
明らかに、機嫌の悪いと分かる声が返ってくる。しかし、それは分かりきってる事だった。だからこそ、俺はこのタイミングで話を切り出したんだ。
「今日、デパートで福引があってさ。…当たったよ。」
「なにが?」
多少は興味を惹かれる話題だったのか、包丁の音が止んだ。
「…海外旅行のペアチケット。」
「…え?」
無言…。静寂…。そして…
「…ぇええぇえぇ〜〜〜〜!!!!」
近所迷惑なほどの大声が響く。
あらかじめこの展開を予想していた俺は、すでに耳を塞いでいた。
「本当に!?凄いじゃないの。」
感激した母さんは、俺の手を取って大はしゃぎだ。だが、
「でも福引なんて、どこのデパートでやってたのかしら?噂も聞かなかったけど…」
と、疑問を口にした。
(む…、さすがにここらへんは主婦だな…。相変わらず鋭い。)
これ以上つっこまれる前に、畳み掛ける事にした。
「それで、このチケットなんだけどさ…。母さんにやるよ。」
「え…私に。…貴時、いいの?」
案の定、疑問をうやむやにする事が出来たようだ。
「いいよ。どうせ小学生の俺が持ってたって、使い道ないしね。」
というか、予定の内だった。
「ありがとう、貴時。あんたってば、本当に良い子ね。」
多分、詩女以外では誰も口にしないであろう言葉が紡がれる。
(「良い子」…ね。それは無いな…)
自分で、そう思う。
今の行為にだって裏があるのだ。それを考えると、少しだけ胸が痛んだ。
「で…さ、母さんは誰と行くの?」
当然の質問を口にする。
「あ…」
「それ、「ペア」チケットだろ?」
その時の俺の口元は、少しにやけてたかもしれない。
「そうね。じゃあ京次と……」
そこまで言って、言葉を止めた。
母さんの表情がどんどん険悪になっていく。おそらく帰宅前に親父や命姉さんと喧嘩した事を思い出しているんだろう。
「……そ…そうね。じゃあ、貴時と一緒に行きましょうか!」
と結論を出した。
「俺…?」
「ええ、当然でしょ。もともと貴時が当てた賞品なわけだし。親子で旅行に行くなんて、別におかしい事じゃないわ。…もちろん、あなたが嫌じゃなければ…だけどね。」
「…嫌じゃ…ないよ。」
全ては予定していた展開。
計算していた事。
チケットだって本当は福引で手に入れたものじゃないし、母さんを親父と一緒に行かせないために、命姉さん達と喧嘩した後に話を切り出した。これなら自然な流れで、母さんと旅行に行く事が出来る。
当然こんな回りくどい事をしてまで、海外に行くには理由があった。
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俺の親父である皆月京次と、異母姉である雪之絵命。そして、命姉さんの母親にあたる雪之絵真紀。
俺の家族の中で、この3人は共通の事件に巻き込まれつつある……いや、すでに巻き込まれている。(雪之絵真紀は、俺の家族とはいえないかもしれない。それに彼女は、現在は行方不明という事になっている。)
俺の調べたところ、親父達の敵といえるのは、『雪之絵』『陸刀』『鳳仙』という名の三家。今はまだ表立った動きは少ないが、確実に親父や命姉さんの周囲に、根を張り巡らせつつある。
奴らの一番の目的は命姉さん。だが、未だに手を出せないでいるのは、おそらくは親父と……そして、行方不明中の『彼女』が邪魔をしているからだろう。実を言うと俺の持っている情報だって半分以上は、その『彼女』のデータベースやネットワークを通じて失敬したものだ。
しかし俺は、完全に蚊帳の外だ。ただ情報を持っているだけ。
今のところ、この情報をどうこうしようというつもりは…ない。親父に教えてやる義理もないしな。
親父は妻である母さんよりも、命姉さんと一緒に暮らす方を選んだんだ。俺と母さんを捨てた男。そんな親父に協力したいとも思わないし、あいつは俺の協力なんて必要としないほどに強いんだ。むかつくけどな…
命姉さんの事が嫌いなわけじゃない。あの人だって、その体に流れる血に翻弄されてる被害者だ。
だが親父の事は大嫌いだ。ずっと命姉さんの事を放っておいたくせに、今更姉さんの父親面する中途半端さ。そのために、母さんと俺から離れて暮らすあいつ。
知っている。あいつが母さんから離れて暮らすのは、自分や命姉さんの近くにいることで『雪之絵』の事件に巻き込ませないため。命姉さん一人なら、おそらく親父と雪之絵真紀で守る事が出来るだろう。だが、それによって俺や母さんが狙われ始めたら…きっと全員を守る事は出来なくなる。
親父は意外と鋭い。普段は鈍いヘボ親父だが、たまに…鋭い。
だから、あいつは知っている。俺が体を鍛え続けてる事を。あいつは母さんに危険が迫っても、ある程度までなら俺の力(この場合は暴力だけじゃないが)で守れると感づいている節がある。そこがまた癪に障る。
もちろん俺が強くなるのは、親父のためじゃない。だが、結果として、あいつの思いどおりに強くなろうとしてる自分にもむかつく。
だからといって、今更あいつが命姉さんを捨てて、母さんを守ろうとしても、俺は面白くないんだがね。ならば、俺が母さんを守る。あいつになんか守らせてやるもんか…
もちろん親父を軽視してる『敵』が、命姉さんとは関係が薄い母さんに目をつける可能性は、極めて低いだろうけどな。それでも、命姉さんを匿うことで、母さんや俺に被害が及ぶ確率を、親父が高めてることは事実なんだ。
俺は「力」が欲しかった。敵にも、親父にも負けない「力」が…。母さんを守ることができる「力」が…
だから、俺はこの地へとやってきた。
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「……でね。その店が穴場らしいのよ。日本の雑誌には載ってないんだって…。貴時、聞いてる?」
少し遠くで、母さんの声が響いている。これで「聞いてなかった」などと言うと、今度こそ置いてきぼりにされかねない。
「ああ、聞いてるよ。」
そう答えながら、俺は苦笑いを浮かべた。