玄関までやって来た皆月京次が、ピタリと足を止めて、素早い動きで振り返る。
「サラっ、部屋に戻れっ。」
「...ちっ」
小さな舌打ちの後、姿無きデバガメの気配は消えた。
もう一度、辺りに命とサラの気配が無いのを確認して、玄関の扉を開ける。
外には、紺のスーツを着込み、両手を手持ち無沙汰そうにブラつかせた、皆月(旧姓 渡)詩女が立っていた。
「こんばんわ。」
「おう。」
京次が笑顔ながら、ぞんざいな挨拶で迎え入れる。 しかし詩女もそれを気にする様子はない。
元々このアパートは皆月家のものなのだ。 「いらっしゃい」は論外だが、「おかえり」でも嫌味な気がする。
京次も、色々考えた末に「おう。」に落ち着いたのだろう事は、詩女の「こんばんわ。」も考えた末に決まったので、よく解る。
「流石に懐かしいわね。」
玄関から廊下を進み、居間に通された詩女は、感慨深そうに呟いた。
京次と結婚した詩女は、命が゙転がり込む前までの五年間、このアパートで暮らしている。 そう思うのも無理もない話だ。
卓袱台の前に先に座った京次は、座布団を詩女に進めた後、為れない手つきでお茶の用意を始める。
ポットや急須、湯飲みなどは、既に卓袱台の上に用意しておいた。
「おかまいなく。」
進められた座布団に正座した詩女が、おそらく京次にしか見せないであろう柔らかな笑顔を浮かべた。
「...元々静かな場所だったけど、それでもこんなに静かだったかしら?」
「まあ、落ち着けていいだろ?」
入れ終えたお茶を、詩女の前に持って行く。
この辺りが、元々国道に面していない地域である事に加え、このアパートのほとんどの部屋は雪之絵真紀が借りていて無人の空き家同然である。
現在午後八時を回った所だというのに、気味が悪いぐらい静かだ。
「...怪我、そんなに大した事なさそうね。」
お茶を一口啜った後、詩女が幾分視線を落としぎみに呟いた。
「ああ、て、今日来たのは、コレを確認する為なのか?」
京次が、包帯の撒かれた左手を上げて見せる。 詩女は静かに肯く。
命のいるこのアパートに、本来詩女は絶対寄り付かない。 それが今回はどうしてもと言って、無理矢理やって来たのである。
「ワザワザすまなかったな。」
「いいのよ。でもその程度の怪我だったから、私に言わなかったのね? 貴時に京次が怪我したって聞いた時は、私に連絡出来ないくらい大怪我なのかと思ってしまったわ。」
「貴時から聞いたのか?」
本当は、詩女に連絡出来ないくらい大怪我だったのだが、今はそんな事はどうでも良い。 京次には貴時から聞いたと言う方が大事だった。
「そうよ? 怪我して寝込んでいるはずだから、様子見に行けってうるさいの。」
嬉しそうに話す詩女には悪いと思ったが、京次には信じられなかった。 貴時が自分を嫌っているのは、身にしみてよく解っている。
「貴時と喧嘩して、京次が怪我したのって、一年くらい前の話よね?」
「ああ?」
「その時の喧嘩で、何か和解するような事でもあったの? 貴時があなたの事をそれほど悪く言わなくなったのは、丁度その頃からよ?」
京次は首を捻る。
確かに京次は、一年前に貴時とやり合っている。 もっとも京次にその気は無く、一方的に貴時が戦いを挑んで来たのだが。
「腹を改造拳銃で撃たれて、そのまま気絶したんだぜ? 貴時の心象良くなる場面なんて、全然無いなぁ。」
「そう?本当に?」
「んー?」
京次は昔の記憶をほじくり出した。 貴時とやりあったのはそれ程昔の話ではない為、割と鮮明に覚えている。
。
『...』
『...親父なら、俺が引き金を引く気配は読めたはずだな? それなのに何故よけなかった?』
『俺や母さんに申し訳ないから、制裁は甘んじて受けるつもりだったか?』
。
「...どう考えても、ないなあ。」
そのまま気絶してしまった京次には、今の記憶が全てである。 幾ら考えてみても、貴時が自分を見直す部分があるとは思えなかった。
結局トドメは刺されなかったようだが、担ぎ込まれた病院で、三途の川で溺死する夢を何度も見たものだ。
更に言うと、事情聴取にやって来た警察には、もっともらしい事を並べ立てて誤魔化した。
ただし、事件をうやむやにした理由は、貴時庇ったからとは言い難い。 貴時なら、自分を捕らえようとする警官に対し、平気で弾丸を撃ち込むだろう。
いくら貴時が罰に問われない年齢とはいえ、人殺しにはしたくなかった。
「ふーん、まあいいわ。 それより、今日は私、ゆっくりしていってもいいんでしょ?」
意味あり気な笑顔を浮かべた詩女が、座ったままにじり寄る。
「確かにそれはいいけど、俺そんな事を言ったか?」
「貴時がね? 今日はあの女の娘(命の事)の友達が泊りに来てるから、邪魔はされないって言ってたわ。」
「貴時が!?」
流石にこれは驚いた。 どこかで貴時が見ているのではないかと辺りを見回すが、無論それは無い。
しかし、これには当然理由がある。
このアパートの周辺、内部には、雪之絵真紀の手により、カメラや盗聴機が多数仕掛けられているのは、雪之絵本人の口から聞いた通りであるが、貴時は、雪之絵の仕掛けたこれらの器材を、自分もちゃっかり利用しているのである。
更には雪之絵の使っている端末からは、ハッキングにより情報の全てを頂いた。 つまり、貴時の情報のほとんどは、雪之絵真紀から得たものだと思ってもらえれば良い。
しきりに首を捻る京次に、ぴったりと詩女が張り付いた。
「ここでするのって、懐かしいと思わない?」
「...そうだな。」
懐かしい所の騒ぎでは無い。 京次はここで、詩女と一緒に第二の人生を出発させたのだ。
当時は、こんな訳の解らない生活を送ろうとは、夢にも思っていなかったが。
「詩女、本当に思い出しちまったから、少し乱暴に抱く事になるかも知れないぞ?」
京次がアケミを抱く時、雪之絵真紀を抱いた時、色々な打算が働いていた。 また相手も打算を持って京次を求めている。
だが、詩女にはそれがない。 ただ本能の赴くままに求め、抱き合うだけ。
京次が詩女を抱く時は、おそらく本当の意味で”夢中”になれる。
最終話、−前に歩く−(その一) 終